【今くるよの若いころ】あのときキミは若かった!2人は輝いていた

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お笑い芸人の今くるよさんが2024年5月27日、膵がんのため、大阪市内の病院で亡くなりました。

漫才師として長い間活躍していた今くるよさん。

その姿は、多くの人々にとって記憶に残るものです。

この記事では、今くるよさんの若いころのエピソードに焦点を当て、その輝かしいキャリアの始まりをご紹介。

彼女の若かりしころのエピソードや、今いくよさんとのコンビ結成の秘話など、ファンならずとも永遠に忘れることはないでしょう。

今くるよの若いころ|若かった2人の大活躍シーン

漫才師として長年愛され続けている今くるよさんですが、若いころの彼女は、とても輝いていました。

特にコンビを組んでいた「今いくよ・くるよ」は、昭和から平成にかけて漫才界に大きな影響を与えました。

デビュー時期

今くるよさんと今いくよさんのコンビは、1973年にデビューしました。

まだ若手だった彼女たちは、当時の漫才界で次第に注目を集めるようになります。

特に彼女たちのスタイルは、テンポの良い掛け合いや、ちょっとした毒舌が受け、観客を笑いの渦に巻き込みました。

テレビ番組での活躍

1970年代に入ると、今いくよ・くるよの人気はさらに高まり、多くのテレビ番組に出演するようになりました。

彼女たちの独特なキャラクターと軽快なトークは、テレビの前の視聴者たちを魅了しました。

人気絶頂期

1980年代には、今いくよ・くるよは日本中で知られる存在となり、多くの漫才大会で賞を受賞しました。

彼女たちの漫才は、日常の些細な出来事をユーモラスに描き出すことで、多くの人々に共感と笑いを提供しました。

この時期の彼女たちは、漫才界のトップに君臨し、多忙な毎日を送っていました。

ラジオ番組にも

漫才の舞台だけでなく、ラジオ番組にも挑戦しました。

彼女たちの声だけで繰り広げられるトークは、リスナーの想像力をかきたて、多くのファンを獲得しました。

特に、関西のリスナーには絶大な人気を誇り、ラジオ番組への出演依頼が後を絶ちませんでした。

今くるよさんと今いくよさんの若いころの活躍は、まさに日本の漫才界を代表するものでした。

彼女たちの絶え間ない努力と革新は、後に続く若手漫才師たちにとって大きな手本となっています。

その時代の彼女たちの輝きは、今もなお多くの人々の心に残り続けています。

今くるよの、輝かしいプロフィール

今くるよ(いま・くるよ、本名・酒井スエ子、さかい・すえこ、年齢非公表)が2024年5月27日(月)、膵癌のため、大阪市内の病院で逝去しました。

今くるよさんは、日本の漫才界を代表する存在として長年にわたり活躍してきました。

その明るいキャラクターと巧みな話術は、多くの人々に愛されています。

ここでは、彼女の輝かしいプロフィールを詳しくご紹介します。

生い立ちと芸能界入り

幼少期からお笑いに興味を持ち、特に漫才に強い憧れを抱いていた彼女は、自然と漫才師の道を志すようになります。

1970年に今喜多代に弟子入りし、その後、高校時代の同級生で同じソフトボール部だった今いくよ(2015年5月に逝去)と「今いくよ・くるよ」を結成。

当時はまだ無名でしたが、独自のスタイルと抜群のコンビネーションで徐々に人気を集め、関西を中心に活躍の場を広げていきました。

1980年代の漫才ブームにのって一世を風靡し、その後も女性漫才師のパイオニアとして、劇場やテレビ番組、CM、映画など多方面で活躍。

後輩たちに舞台衣装の靴やスーツをプレゼントしたり、食事をごちそうしたりと、後輩思いの一面もあり、お腹をポンとたたくしぐさや、両手を顔の前で交互に前後し「どやさ」という言葉は、代名詞的なギャグになりました。

今くるよさんと今いくよさんは、その活躍が評価され、多くの賞を受賞。

1980年代には、漫才大会で数々の優勝を果たし、漫才コンビとしての地位を確立しました。

特に、

1981年「上方お笑い大賞」金賞

1982年「花王名人大賞」最優秀新人賞

1984年「上方漫才大賞」大賞を受賞

するなど、数々の賞を受賞。

彼女たちの実力が広く認められています。

また、関西演芸界の発展と振興に貢献したとして、 2023年に今いくよ・くるよで「第26回上方演芸の殿堂入り」を受賞しました。

彼女の明るい笑顔と元気なキャラクターは、今も多くのファンに愛され続けています。

今くるよさんのプロフィールは、漫才師としての成功だけでなく、彼女の人間性や努力の積み重ねが感じられるものです。

その輝かしいキャリアは、多くの人々に笑顔と元気を永遠に届けてくれるでしょう。

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